本当に楽しい舞台でした。
音楽が、ピアノが彩りを添えられたのならば恐悦、感無量です。
さて昨年もやった、というか個人的な仕事として、
彩りを添えた音楽はまとめて、供養するということをするのですが今年も。
Uterus, Ballade romantique No.2
泡雪屋散楽譚劇伴による独奏用ピアノ小品
0:00〜: 1st Mov.Uterus
5:08〜: 2nd Mov.Mille-feuille
10:11〜: 3rd Mov.JigokuEzu - Uterus(Reprise)
15:48〜: Postlude,"Hello World"
本作の音楽ですが、歌曲は作詞作曲を北條華生、その編曲と劇伴を僕が担当しております。
最近劇伴ってどうやってやるの?と聞かれることが多くなったのでそれについて書きたいなと思います。
ちなみについ最近まで劇伴を「げきはん」って読んでました。
「げきばん」ですね。
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基本的に、というより当然の前提ですが、僕は劇伴はもちろん主役ではないと思っています。
しかしこれはアンビエントであって、アンビエントではないものでもあると考えています。
様々な音楽が溢れている現在だからこそ、今のエンタメにはまるで共感覚のように色々な事象に音楽が付されています。
楽しくても悲しくても、時には感情を排しているのに音がなっていることも多々あります。
劇伴とは無限に解釈のできるその"空気"に、一つの方向性を呈示すること。
音楽がなくてもそれは成立はし得る、しかし"その"音楽が存在しなければ"この"空気は生まれない。
劇伴とはかく得るべきだと考えています。
僕は基本的に劇伴を演る場合は楽譜は見ません。
というより台本・脚本が楽譜の代わりになります。
舞台は生き物です。
決められた尺がコンマ秒の狂いなく再現されることなんてまずあり得ません。
複数の演出パターン、観客の反応、演者の"気持"が複雑系に絡んでその舞台の空気を生んでいるのです。
であるならばむしろ全ての小節が決められた曲を演奏することは不可能であり、逆にそれを目指すことはナンセンスであると考えています。
楽器が置けない舞台では、録音の音楽を使われます。
僕も録音で提供することはなくはないですが、
この場合音楽は有効的に使われていたとしても、有機的に使われることはまずあり得ないのです。
録音された・再現された音楽とは舞台の"都合"を少しも考慮しないのですから。
つまりその瞬間瞬間の演技に合わせていかねばならない。
劇伴に求められることとはそう言うことなのではないかと僕は考えます。
「では全て即興なのか?」
即興性は必要ではあるのですが全てが即興ではありません。
そこで僕が考える音楽原理「変容(Variation)と再現(Refrain)」が登場します。
音楽(に限らず創作物全てですが)を構成する大きな要素はこの二つだと考えています。
片方だけでは成立せず、この二者の仕方・バランスが創作物の良し悪しを確定するのです。
たとえばソナタ形式や変奏曲がわかりやすいでしょう。
ソナタでは展開部という徹底的な変容の後に圧倒的な再現をすることでメリハリのつく音楽を構築します。
一方で変奏曲とは主題の再現と変容を同時に行い発展していく音楽です。
逆に変容だけが起こる音楽があったとすると、鑑賞者にとって「変容すること=通常のこと」と捉えられ、マクロで見ると「"変容し"続けている」だけの音楽となり単調となります。
鑑賞者が「変容と再現」を多様に知覚できる音楽でなくては面白いものではなくなるのです。
では統一性のない即興での劇伴ではどうなるか。
知覚しにくい「音がただ鳴っている」だけになり、もうそれは音楽とは呼べないのです。
だから僕は主題動機を最小限にするという手法をとります。
クラシック音楽創作でいう「主題労作」をその場で行うのです。
今回のUterusは各楽章冒頭の3つの主題動機で構成され、空気を作り出す時は基本的にこの3つの主題を基に展開しています。
緊縛という視覚要素と"空気創生力"が極めて強い因子が働く場面では、音楽は構成力と同程度の空気創生力を持たねばなりません。
だから僕は第1楽章冒頭の「AHCGHA」という動機を基軸にその場の空気にあわせ即興を展開します。
これは時に30秒の時もあれば30分近く弾く必要があるときもあります。
しかし主題と空気さえ決まっていればいくらでも対応できるのです。
これが僕の劇伴です。
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第1楽章「Uterus」の基本主題は今回のオファーをいただいた時に絶対入れようと思った、「僕の中で最も強い主題」でした。音列もさることながらその汎用性の高さこそこの使用用途に向いていると考え、様々なところで実験・実践を行いました。
だからこそ乱発した時にその効力を失うと考え、客入れと最終シーンのみに使用を限定し「最初と最後」という最も強い部分で使用しました。
第2楽章「Mille-feuille」は物語中盤までの第1クライマックスに使用しました。
並列して進行する多数の不幸を表現すべくロンド形式を意識し《さよなら果樹園》組曲からの引用をも行いました。これは不幸の多層構造、すなわちミルフィーユなのです。
第3楽章主題「ED-DC-CH-HA」は僕がこの脚本を読んだ時に感じた「地獄絵図」の音像化でした。
これは地獄。だけど辛い地獄ではない、美しい地獄。
「あんっハッピー」のコンセプトに相応しい演出に応えられるよう、最もアンビエントで最もドラマティックな音楽です。
これは第2クライマックスを構築し、最終クライマックスの「Uterus(Reprise)」に引き継がれます。
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今回この楽曲には個人的に主観を込めた「後奏」を付しました。
あくまでも「個人的な」想いです。
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今回録音したこの楽曲はあくまでも録音した瞬間の姿です。
おそらくまた再演することがあれば主題動機以外はまた変わってくるでしょう。
演出や状況によっては構成すら変わるかもしれません。
それでも構わないのです。
劇伴とは極めて強い目的意識を持った音楽であり、これは「要素」なのです。
アンビエントという日常を添える音楽と、その対極にある非日常を支える劇伴。
僕はこの二つに心の底から惚れ込んでいるのかもしれません。